「これはほんの序の口。香川県警へのメスはこれから本格的に振るわれるだろうね」。
こういうのは、警察庁幹部。 これまで本紙が追いかけてきた通り、香川県警の抱えている病巣はかなり深刻である。 この病巣を摘出するために、これまでの警察改革上では考えられないくらいの大がかりな手術が施されることは必至なのだ。 襲撃事件の重要性 「川上氏襲撃事件をもう一度洗え。 ただ、この再捜査は、特秘事項である。特に讃岐には知られてはならない」。 こんな指令が飛ばされたのが、昨年晩夏頃だったという。讃岐とは、これまでにも本紙が書き続けてきた、香川県警に対する隠語。 そして、この指令の発信元は警察庁である。 「川上氏に対するいくつかの事件は、全て同じ所から発生し、同じ所から実行犯が出ている。わかりにくいかね?要するに事件の動機も犯人も全て同じ、というわけなんだ。それを私の口から言わせるのかね…」。 警察庁幹部がこうして重い口を開きだした。 「いいかね、結局、香川県警、香川銀行、そして若林組をひとまとめにして同じ所≠ニ称すべきなんだ」。 この驚くべき事実を警察庁幹部はアッサリと口にした。 要するに、地元金融機関と警察と暴力団がラグビー宜しくスクラム組んで川上氏を襲撃した、ということをこの幹部は認めているのである。 「もちろん、以前、これは私たちが発した極秘指令に依って着実に得られた事実です。その証拠も握っています。それが揃ったからこそ、こうしてこれからは表向きに敵陣≠ノ切り込む段取りを進行させているんじゃありませんか…」。 こういってこの幹部は、薄く笑った。 本気なのである。 しかしながら、この幹部がいう証拠とはどういうものか? 「川上氏が自宅で襲撃された事件。 そう、銃撃事件ですよ。 あのときに川上氏の在宅、一家団欒の時間を捕捉したのは、他でもない香川県警の津島組≠ニいわれる班でした。 凶行に使用された拳銃は、元はといえば、警察の押収品です。 これも現状を再確認したところで裏付けられたものです。 銃把の部分を多少改造していましたが、押収品と同一と断定されたのです。 かつて坂出で起きた暴力団抗争の時に押収された道具≠煌ワまれている」。 「さらに、川上氏宅銃撃事件の時には、ある毒薬も高松市内のある病院から流され、実行犯の手に握られていたことも判っている。何故、毒薬なのか。それは、川上氏宅で飼っていた犬に対するものだったのです」。 いざとなれば、川上氏宅の番犬を屠っても、銃撃を実行せよ、という指令だったのである。この事実は、襲撃が計画的に実行されたことを裏付ける。 「その計画に当の香川県警が荷担していた、身内の恥をさらすようで何とも忝ないが、そういうことなのです」。 この驚くべき実態はさらに同幹部の口から語られていく。 貸し出された警察 「川上氏一家に対する車上鉄パイプ襲撃事件では、実行犯との無線機を香川県警が貸与していた。 もちろん、レンタル料など取らずにね(笑)。 冗談はさておき、あの襲撃事件は綿密なる計画、銃撃事件よりもさらに綿密性を施した計画が練られていたんです。 その細かい網を川上氏は九死に一生、いや九千死に一生と喩えた方がいいかもしれないが、くぐり抜けた。 これはもう神の思し召し、川上氏にはこれから先も卑劣な暴漢にも屈せずに忌憚なきメスを振るってもらわなければいけない、という多くの人の情念による賜ですよ」。 同幹部は興奮をあえて抑えながら語っていく。 「なにしろ、この襲撃事件では、計画の打ち合わせを、高松北署や長尾署の道場や会議室を使って行っていましたからね。さすがに私たちの経験でもこのような破廉恥な行為が発覚したケースはなかった。一方では、同じ計画を今度は若林組の息のかかった市内のクラブ、キャバレー、ホテルなどで練っていたことも判っている。 昼は所轄内で、夜は飲み屋で、ともなれば、要するに香川県警津島組≠ニ若林組幹部連中は、一定の期間常に行動を共にしていたということになりますね。 恐らく家族以上の付き合いだろう」。 最後のような皮肉の一つもいいたくなるような状況が、一時は川上氏を苦難の奈落に突き落とし、香川全県下に強い影響力を誇示していたのである。 それにしても拳銃や無線機の無断貸し出しをしながら、人の生命を脅かしていたとは、驚きを通り越して憤怒が突き上げてくる。 戦後初めての暴力封殺 「もっとも好ましくないのが、川上氏の動きを止めたら、その度合いによって報酬が渡される、ということを取り決めていた、ということだ。実行犯を担う若林組、計画を立て実行に移させる司令塔の役目を担うのが、津島組。 それぞれの報酬額はきめ細やかに決められていました。 この報酬の原資は、もうお判りだろう。 香川銀行本店ですよ。 大林元頭取以下、その眷属がこの報酬金拠出の蛇口を握っていました。三者それぞれの利害関係がピタリと一致して、川上を亡き者にせよ≠フ合い言葉の下、力を出し合った、というわけです」。 ここでこの幹部は一息つく。ゴクリと生唾を呑み込んだ。そしておもむろに、「メディアをこれだけの暴力で封じ込めようとした事件は戦後ありませんでした」とようやく言った。 「しかもそこに、地元警察が力を貸していた。こうなると後にも先にも絶対に起こる可能性のない事件だともいえるでしょう。特に川上氏襲撃事件では、現場にひとりだけ、県警の巡査長がいた、そんなことも確認されているのです」。 警察庁が血道を上げて香川県警に対して極秘捜査を続けるのはこういうわけがあったのである。 ただ、この指令を全く別の機関が知っていた。もうひとつの司直である。 「どの立場にあっても、不条理な暴力を憎悪する気持ちはある。それが司直であるならば尚更でしょう」。 至言である。 香川県警に対するファイナル・カウントダウンのスイッチはすでに押されている。 「もう後には引けません」。警察庁幹部が意を決したように言う。 文字通り、桜の花咲く頃、香川県は大きな転換期を迎えるに違いない。 今もあるのか、盗聴が 平成九年の発砲後、高松北警察署の上原署長が、「再び襲撃された時、部屋の中の音が北署の当直室にあるスピーカーに流れる、要人を警備するための装置です」。 本紙川上は好意に甘えた。
平成五年十月、香川銀行は百十四銀行より、井坪建設に対する根抵当権(極度額十五億円を譲り受け、井坪建設との取引を一挙に拡大した。 平成九年十二月、暴力団若林組の企業舎弟で金融業を経営する滝川という男が、井坪建設の事務所において、井坪社長の紹介で香川銀行の小川常務と知り合った。 小川は、井坪から滝川が井坪に相当額の資金協力をしていることを聞いており、今後は協力して井坪を支援していくことなどを話し合ったという。 その後、井坪が計画していた志度町内における大規模土地開発について香川銀行が全力を挙げて支援することになり、小川自身も町、地元、利害関係人らの会合などには必ず出席して香川銀行の協力体制について説明し、同意書取得などについても貢献したようだ。 そのためか、許可申請は平成十年の春までには許可される見通しがたったのである。当時、滝川は香川銀行高田支店(高松市亀田町)と取引しており、小川は香川銀行の常務として滝川の取引状況について熟知し得る立場にあった。 滝川の協力を逆手に取る 平成十年二月七日朝、小川から滝川に「相談したいことがある。お会いして話がしたい」という電話があり、同日の午後一時、高松空港グランドホテルで会うことになった。 滝川がホテルに行くと、小川は既に来ていた。次号へ続く
近藤の説明、 「親和会が使った拳銃は六車から預かった拳銃ではない。拳銃の出所を自殺していた六車にした。反目の組織に拳銃を預けることは絶対にない」。 「分かりました、一からやってみます」。 その後一カ月ほどして徳島県警の森係長から電話があった、 「近藤さん、おかげさまで、真犯人を逮捕しました。香川県警の報告書に頼って、捜査方針を間違いました」